推しが『ラヴィット』なんて歌うからオタクの情緒はもうめちゃくちゃ
※オタクが自己嫌悪をやっています
好きなものがあって幸せだと思っていた。
なにかを愛せるのは素晴らしいことだと思っていた。
好きも愛もなにひとつわからないと思う自分から、いつも頑張って目を逸らしていた。
わたしは発信するのが好きだ。
こういうものが好き。この曲のこの歌詞がすごくよかった、この漫画がすごくおもしろかった。
言葉選びがおもしろいね、とか、考察すごいね、とか言われて、ご機嫌に生きてきた。
生き様がかっこいい、なんて言葉は飛び上がってしまうくらいのご褒美だった。
強くて愉快でキャッチーな、心地よい存在であろうとした。
幸いなことにそうすればたくさんの人に気に入ってもらえて、気持ちいい愛をもらえたから。
"推し"を意識したかわいい装いでライブに行く。
今はできないけれど声を張り上げて名前を呼んでペンライトを振り回す。
人と集まって"推し"の話をして盛り上がる。
その一挙一動に喜んだり泣いたりする。
オタ活最高!生きててよかった!人生の歓びってこれかも。
ずっとそう思っていられたらよかった。
俯瞰の自分はずっとわたしの肥え太った自己愛だけを見つめていた。
推しが好き。楽しいことが好き。話すことが好き。表現することが好き。
そんな自分が好き。
推しにめろめろで、毎日楽しそう、おもしろいオタクって言われる、自分が大好き。
自分の人生をちょっとドラマチックにそれっぽくしたくって、手近なものを使ってるに過ぎないんじゃないのか。
好きを語るのは、手軽に感性の豊かさを演出できるから?
涙を流したり激しい感情をあらわにするのは、これが好きだと自分で信じていたいから?
わたしのこれは何?
本当はなにも好きじゃないかもしれないなんていつも不安でいるのがバレたら、もうどこにもいられない。
たとえばそうして本当に一人になったとき、わたしは"推し"を見て、どんな感情になるのだろうか。
こんな例え話に正解はない。
でも胸を張って「きっとそれでもわたしは推しに心動かされて、どうしようもなく惹かれるだろう」と言えない。
その虚しさや悲しみが、日々ふとした瞬間に心にひたひたと迫ってくる。
あーなんかもう泣けてきちゃったな。
なんで泣いてるんだろう。なにもないことを認めたくなくて泣いてるんだとしたら最悪だね。
君のすべてが大好き。
こんな気持ちまで文章にして発信しようとしちゃう自分も、たぶん大好き。
でも一生か弱いうさぎは嫌かも。
今日もにんじんおいしいよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!